ほんとはずっと寝ていたい。

書けることがあるときだけ書くかもしれない。

10歳の頃は才子、だった、のかな?

小学校に入ると、序列がほぼ絶対的に存在していることに衝撃を受け、そういう序列が存在する場ではうまく行動出来ないことが増えてきた。

要するに年齢の差という階級の中で最適な振る舞いというものを理解できなかったのと、5歳の頃の項目で述べた通り、当時IQが抜きん出て高い=多少程度の年上の子と比べても知的活動が高いため、年上の子のプライドを砕くような言動に自動的に帰結したのが原因と思われる。

学業成績には相変わらず大きな問題なし。

幼稚園の知育のなんちゃって国語やなんちゃって算数程度から、小学校に入り国語算数理科社会という4大教科に発展したけれど、特に苦手とする項目はなく、どちらかというと感性を育てる課外授業系の方が教科項目から比較して若干評価が低くなるような状況が続いた。

音楽はピアノレッスンのおかげで楽譜の読み取りも演奏も問題なしだったので主に図工だったが、静物も動物も捉えて描いて形に落とす、というのが比較的苦手だった記憶がある。

幼稚園児の頃に始めた公文式は小学校二年の時に五年生相当の問題の頃に壁にブチ当たり、かなり長期間進級出来ないことが多大なストレスとなって逃避傾向がジワジワ発生してきていたため、小学校三年生になる前に公文式の教室をやめることになった。

それでも算数力のプールは五年生の分まで存在したため、算数については五年生になって二年生時に躓いていたところを何とかボロを出さずにクリアすることが出来るようになるまで、同学年の他の子どもと比べても常時成績は良かったように記憶している。

尚、個人的に二年生・三年生の頃社会を少々苦手に思っていたが、社会の授業でフィールドワークを多用してくれる教師が担任にあたった頃、この苦手感は払拭された。

運動能力もむしろ高い方。

小学校になると幼稚園よりはずっと長い距離(100m単位以上)の中・長距離走や障害走、複雑なルール・動作の発生する球技、ノルマのある水泳など運動も高度化してくる(むしろ小中学校の体育が一番高度な気もする)が、少なくとも小学校時点でそれらに困ったことは一度もない。

逆に、陸上競技なら幅跳びとハードルが得意で、通常の徒競走であれば速度で負ける同級生相手でも、このニ種目となると私の方が順位は上ということもよくあり…というか幅跳びもハードルも学級一位から落ちた記憶がなかったし、大会選手のような美しいフォームで飛ぶ、と担任から評価されたこともあった(が本人にそれがすごいことだという自覚はなく「あっそう」程度の感慨)。

この頃から若干球技を怖がるようになった記憶がある。
幼稚園の頃は保育士が付き添いで簡単な球技を行うのみだったが、小学校にもなると児童が自由にボールを持ち出し、ドッジボールなどの多少攻撃性のある球技を嗜むようになってくる。

その際、体の大きな私のような児童は目立つのだ。
反射神経こそそこそこあったが、同時の判断能力については優柔不断のきらいがこの頃既にあって、ボールが飛んできた際の適切な行動を、例えば避けるのか、受けるのか、等を頭で考えて動こうとしていた気がする。

そうなると行動に遅れが生じ、結果としてボールがヒットして外野へ放り出される。
児童達も遊びの上で戦略を脳内で組み立てることが可能になってくるので、誰がドン臭いから狙えば勝てる、ということを承知で遊ぶようになってくる。

フィールドに残って主力として遊べないという事実と、外野から中々フィールドへ戻れないという事実(投げる力やコントロールには自信があったが、敵方児童を「殺し」自分がフィールドに戻るということへの嫌悪感があった)、何よりボールが当たると痛いということへの恐怖感が先に立ち、身ひとつで行う系の球技をあまり好まなくなっていった気がする。

それでも小学校4年~6年の間は地域の女子ソフトボールクラブで土日は汗を流し、月2回程は近隣地域の他ソフトボールクラブとの試合も経験し、6年の時には4番も務めた。

因みに長距離走はこの時点で苦手としており、冬になると小学校の周囲1km強を走る授業に変わることが苦痛で仕方なかった。

序列と空気を理解しない。

私が所属した小学校では、部活動の開放は4年生からだったが、3年生から参加可能なクラブがいくつかあった。

早熟な同級生から誘いを受けてそのうち2つ程参加したが、どちらも似たようなことでトラブルを起こし、うち1つについてはそれが原因でそのクラブを離れることになる。

冒頭に記した通り、年上の生徒に配慮をするという発想がなく、自分の見解の方がより良いあるいは事実に近いと考えていると、年上の子のメンツを考えることなく理屈で押し切る。

気が向かないことについては屁理屈をこねて自分のやりたいことだけをやりたがる。

この2つが組み合わさり、自分の上にいる年上児童が寛容な場合はともかく、自我強めだったり神経質な児童だったりすると、瞬く間に私は敵認定された。(さもあらん)

後者はともかく、前者については小学生と言えど「どの言い分に理があるのか」くらいは理解できるし、更にその理を自分よりも年下が口にした上、自分はそれとは違う感情や欲求を持っていることを場に晒されたら、そりゃ子どもなら尚更不快な気分を処理するのは難しかろうと今なら思う。

しかしその当時の私にそんなことがわかるはずもなく。

あっという間に年上の児童とは険悪な状況が立て続けに発生することになった。
私にその自覚はなかったが。

最終的に場を離れることになった方の部活動では、少なくとも二度、自分の上の児童が変わっており、且つ教師からもう部活動はやめたほうがいいと遠回しに勧められて、やめることにした記憶がある。
その場に自分としてもそれほど執着がなかったこともあったような。

ただ、私としても、それ以降に似たようなことが何度か発生した中で、自分の方が理屈上正しく実務能力も上回ると判断した相手であっても、年齢という序列により思う通り動けないということに、ストレスを感じることが増えていったような記憶が薄ぼんやりと残っている。

男子に対して下克上を起こす。

ちょうど3年生の頃、男子のからかいにプッツンきれて、叫んで追いかけたら、思いの外男子が驚いて走って逃げたことでパラダイムシフトが起きた。

なるほどこうやって反抗すれば、あのめんどくさい恥ずかしい情けない状況を回避出来るのか、と考えた記憶がある。

それを覚えたことで、すぐに逃げたり泣いたりすることは減り、ある程度の余裕が出来たのか、少々は無視するという新たな技を獲得するに至った。

そして無視するのにも気分の限界が来たら、キレてみて、教師に大目玉喰らわない程度の暴力(体を押すとかその程度)を予感させてみる、という戦術がとれるようにまでなった。

このあたりから、嫌なことがあっても泣くようなことは目に見えて減り、「幼稚園の頃はすぐにぴーぴー泣いていたけどこれくらいの頃から涙が枯れてたなあ」と最近になるまで思う程度には、ほとんど泣かない子に成長出来たように思う。

人望はないけど、リーダーを任されることが増えた。

男子生徒はまだまだ目立ちたい盛りなので、実力がなくてもやりたいと思えば頭目を張ろうと躍起になっていたけど、これくらいの年齢から、女子に集団社会の知恵がつきはじめ、阿呆でワガママな男子より、実務能力があって頭の良い女子に指示される方がまし、という意識が芽生えたようだ。

私自身が意図してそのように振舞っていたわけではなかったが、勉強はよく出来て教師の覚えもめでたく、空気読まないけれど物事の断行にあたってはそれが最適というのを理解した女子達に担ぎあげられるように、様々な事柄を押し付けられて学級委員長をやったり児童会の書記を行ったりしていた。

何かしらコトにあたっては、改善出来る点が見えれば黙っていられない質故に、いらぬくちばしを横から挟むことが多かった私にとっては、「じゃあ言い出しっぺのお前がやれよ」と言われれば役目を引き受けることに吝かではなかったので、そういうのも特に面倒くさいと思わずに淡々とやらせて頂いたように記憶している。

ただ、そういうことを出来るあなたはすごい、と言われても嬉しいとは思わなかった。

褒められても、得られるものは違和感ばかり。

この頃くらいから、褒められても嬉しいと思うことがなく、周りが賞賛する時に見せるキラキラした顔や感情が、気持ち悪いとか、大きな違和感をもって私の中にとぐろを巻き始めていた気がする。

少なくとも私個人の感覚で、の話になるが、容姿や気立てなどどうあってもこれは並以上になれないと自分で自覚のある部分はともかく、学力や運動能力他一部の文化的才能に関連する能力、あるいは役割を持った時の遂行能力について、自分より卒なくこなせる児童はそう多くはないという自負があった。

成績の面だけで言えば、学級に40人近くいた児童の中でも上位にいることを自覚していたし自信にも思っていた。

それなのに、そのことを褒められても嬉しいと思ったことはなかったのだった。

この関連で今でも折りに触れ思い出すのが、家族親戚で祖母の故郷である土地へでかけた時のこと。

親戚の女性と数名で海を見に出かけ、大阪から一緒にきた一人の女性が、浜の岩の上で足をひっかけて転んでしまった。

幸い、彼女は長めの軽いパンツを履いていたので岩で傷つきケガをすることはなかったのだが、その岩からこぼれ落ちたと思われる石?が彼女のパンツにびっしりとこびりついていた。

それを見た私が思わず彼女の裾を払っていたのを、滞在先の親戚女性が見て、「(私氏)は優しい子やねえ」とキラキラした顔で言ったのに、とてつもない違和感を抱いたこと。

それが社交辞令だったとはその時も今も考えてはいないし、褒めようとして褒めたわけではなく、あまりに自然に私がそのような行為をするのを見て、多分、本気で感心したのだろうと思う。

彼女には息子が二人いたのみだし、どうもこちら側の親戚には女の子が極端に少なかったこともあったようで、私の行為が本当に好ましく思えたのだと今は思う。

ただ、私自身にはそのことは褒められたり感心されたりするに値するほどのことではないという意識があり、要するにその程度のことは出来て当たり前、に近い感覚があったのだ。

それと同時に、自分が何かしら人から褒められるに値することが出来る人間だという認識が、もうこの時点で既になくなってしまっていたのだと思う。

とは言うものの、5歳時の時点で褒められたら嬉しかったのかという記憶は、ないのだが。