ほんとはずっと寝ていたい。

書けることがあるときだけ書くかもしれない。

5歳の時は神童、だったらしい。

割合早熟な子どもで、発話が早いの遅いのという話こそ耳にしたことがないものの、総じて「よく出来る子」だった、そうで。

学業問題なし

通園していた幼稚園の目の前に公文式の在宅教室を開いている家庭があり、朝に夕にその前を通る度に公文式の看板を見ては「面白いことしてるんだろうな」という想像をして気になって仕方なかったのが、気がついたらその公文に通うことになっており、幼稚園の時点で小学校3~4年レベルの算数の段階にいた。

そのことと直接関係あるかどうかは不明だが、幼稚園年長時に行われたIQテストで、園始まって以来の点数を叩きだしたため、基本的には結果は園の中だけでシェアされるものを三者面談で母にその件について相談された、という話を聞いたことはある。

余談だが、この三者面談の時と思しき古い記憶が薄ぼんやり残っており今でも思い浮かべることが出来る。

当時の私の、周りの児童達への認識は「この程度のことが何故わからないのだろう」と感じることが多かったように思う。
「自分と周りの子は何か違う」ということは朧げに理解していたが、学力が段違いに差があり、そのことが思考能力にも差を生む、ということは理解できていなかったのだな、と今なら思う。
この件は小学校で同レベルの子どもたちと出会うことである程度解消されていった。

運動能力問題なし

運動も、小学校半ばまでは跳び箱他ジャンプの必要な競技を若干苦手としていたものの、幼稚園の時点では球技もさほど問題なくこなし、特に足の速さがその時点で卓越していたので、リレーがあればいつもアンカー。
大人の認識がどうあれ、たかが幼稚園のリレーにそんな劇的な展開なんかあるはずもないのだが、大人や保育士のように「アンカーといえば足の速い子」という認識がなかった私は、むしろ「スターターになってバトンを渡してみたい」とないものねだりを考えていたことを覚えている。

好き嫌いは相当強かった

好きなことには周りから何を注意されても譲らない部分がある一方で、嫌いなことからは何としても逃げようと画策してみたり、或いはイヤイヤやっては後々別のところで癇癪を爆発させる、気分ムラの相当激しい子どもだったのは間違いない。

記憶にあるのはピアノのお稽古で、先生がお手本で弾いてくれた課題曲を気に入ったらそれだけは集中して練習するが、気に入らない曲はちょろっと練習して終わり。
それ故に練習不足で中々次に進めない時もあったものの、ほとんど練習していないのに本番の時の調子がよかったのか一発合格して課題が変わる、ということも少なくなかった。

更に、お稽古自体がイヤな時には、お稽古から逃げるということもやらかした(と母から聞いている)。
理由は知らないが、当時音大生だった従姉妹の友人に頼んで、大阪から電車で1時間かけて我が家まで来てもらう形でピアノの稽古をしてもらっていた。
小学校に入った後、その先生の事情かそれとも逃亡することでこれ以上迷惑をかけるに忍びないと判断したのか、その先生との練習は打ち切りになったけど。

母から聞いた逆の「好き故に譲らない」エピソードといえば、休憩時間が終わり他の子は教室に引き上げているのに私の姿がないので保育士の先生が探しに出たところ、夢中で砂場で砂いじりをしていた。教室に戻るよう催促しても全く聞き入れず、なんだかんだで結局15分くらい説得に時間をかけて教室にようやく戻ってもらえた話を保育士の先生から聞かされた、というもの。
(個人的に15分で済んでそれはむしろラッキーだと言えるのではなかろうかと思ったが幼稚園児だし抵抗出来るとしてもその程度が関の山か)

早くも劣等コンプレックスを得る

体が大きく(幼稚園の間は常に背の順並びで一番後ろだった)、幼稚園児でもハッキリ理解できる程には手足のムダ毛が濃かったこと、打たれ弱さは豆腐メンタル並、等様々あって、特に男子児童にからかわれることが多く、あちこちでピーピー泣いていた。

幸いボス女子児童に目をつけられることはなかったのだけど(もしかしたら自分が気づいていなかっただけかもしれない)、何かにつけちょいちょい意地悪なことを言われてはやはりピーピー泣いていた。

その当時Mちゃんという女児がいた。お互いの家が比較的近く、学級が同じになることが多かったのでよく一緒にいたのだが、彼女は色白の外国人ハーフかと見紛うような(ぶっちゃけて言うとFF14のミコッテ女児が彼女そっくりでビビる)可憐な少女でありながら、同級生の男児相手にも尻込みすることなく混ざっていける勇気のある子で、天は二物も三物も与えることもある、自分は彼女のようにはなれないんだな、と思っていたことを覚えている。

家族は不思議ないきものという認識

既に幼稚園の時点で父を畏怖していたことをハッキリとおぼえている。
うちは母が小言、父が大雷の担当、という典型的な家父長制な家庭で、父から怒鳴られる時は母では間に合わない時、という感じなのだが、どちらにせよ「何で怒られているのかよくわからない」という感覚は既にこの頃にはあったように思う。

父も母も「その行為は他の人間にはこう見えるし受け取れるものである」という、他者の視点を与えつつではなく、ただひたすら「それは間違っている」と言い募るだけの叱り方だったので、自分の何が何故、どのようによくなかったのか、どう変えていけばいいのか、を理解学習することが出来なかった。更に父は反省の色が定かでないとなると割とさっさと手を挙げる人間だった。そのため、父はとにかく怖い人、母はワケのわからないことでキレる人、という印象があった。

彼らが何故私には理解不能な理屈で動き、怒りのスイッチを入れるのかがわからなかったことと、妹は比較的それにうまいこと乗って行動することが出来ている様子なのを、ドツボにはまっている自分と比較し考えるに、「この人達の論理は私とは違うのだ」という考えに、既にこの頃には至っていたように思う。

子どもにとって家庭は世界のほぼ全てである、というのはよく言われる話ではあるが、私が既に幼稚園児にしてそのような思考を持つに至った時点で、「私はこの世界には馴染めない異端者」という認識にまで拡大するのは致し方のないことかと考える。

もちろん、例えば妹に対して行ったことが幼稚園児の思考でも明らかに自責のものであると理解できていた時にはその限りにはなかったものの、今考えても、もちろん当時の私にしても、理不尽としか言えないことでよく叱られたと思う。
そこは妹を持つ兄・姉が何度も繰り返し通らねばならない通過儀礼のようなものかもしれなかったけど。

妹については「こいつは私より出来が何もかもよくない癖に私と張り合おうとするし、私がもらったものを全てなんでもほしいと駄々をこねてはその度に母が私から取り上げて更におねえちゃんだから我慢という理解不能なことをホザきやがる、死ね」(意訳)くらいのことは考えていた、という記憶はある。

かわいがっていなかったワケではないけど、恐らくそれは自分の邪魔をしない時のみ、という条件付きな気はする。
ヤツが自分の存在と我欲を主張しなければ私の世界は幾分平和に推移したはず、というようには思う。

ただ、半世紀近くを生きてきて、もし今の自分が他の成人発達障害当事者と比較して他者の視点というものを理解しているとすれば、それは妹の存在が大きかったとは思う。
この「徹底的に思い通りにならない足手まとい」のナマモノがいたために、「世の中の他の人間は自分の思い通りにならないもの」という認識をこの時点でうっすら確立し、増長しやすい思考を幾分でも抑えられた可能性が高い、という側面を無視することも出来ない。多分。