ほんとはずっと寝ていたい。

書けることがあるときだけ書くかもしれない。

私という役割。

役割で何かをしている時は、役割として当然のことをしている感覚になる。
当然のことをしているので、達成して当たり前。出来て当たり前。して当たり前、当たり前だから当たり前。

という文字を見つけて、何故私が褒められても嬉しくないかという事象の根本的なところを、ようやく理解した。

褒められても嬉しくないことのほぼ全ては、私が誰かからそう振る舞うことを願われた、あるいは強制されたが故、出来るようになったりしたりしていることで、自分が本当にそうしたいと思って行ったことではなかった。

私が引き受けていた「役割」

組織の管理能力めいたスキルがあるのは、周りの人間があまりにもアホに見えたり、実際烏合の衆が全く状況を進展させられないとか、頭の悪い船頭がやたら多くて船が山に登ったような経験が重なり、プッツンキレたから状況を把握し分析しこれからのために何が必要かなどを考えて指示を出すようになったことがほぼほぼそもそもの始まりだし。

つまづいた女性の裾についたゴミを払いのけるような「優しい」行動が出来るようになったのは、コケた人間に手を貸さなかった(多分妹だろう)ことを責められたことがあったからだろうし(記憶にはない。ただこの可能性はすごく高いと思う)。

ピアノ演奏が周りの同級生と比べても段違いで進行が早く、「その年齢でこの曲が弾けるのね偉いわね」というような言葉があっても嬉しくなかったのは、私が弾きたかったのとは違う曲を常に押し付けられていたからだし(JazzだったりPops向きの曲を弾けるようになりたかった)。

学力が高いことも、勉強したくてしていたワケではない側面がどこかしらにあったからだ(私は勉強は結構好きだが、ジャンルはかなりニッチだし狭い)。

その他にも列挙出来れば暇がないほど色々あるだろうが、要するにこれら全ては、私以外の誰かに期待されたり、私の上に投影された「私という人間」の役割であったこと。

その期待や投影から逃げられない状況下に生きている故、やむを得ずこれらを引き受けねばならなかった自分がいたのだ、多分。

逃げられなかった呪い

冒頭の記述を見つけた著者は、別の記事にてこうも記している。

役割はそれに応じた規則にそって自分を生きることを強制する。まるでロープで自分を縛り付けているようなもので、自分を縛れば縛るほど窮屈になっていく。
(中略)
役割は「やりたくてやっている行動」ではなく、何かを埋め合わせるため、認められるために行うものである。
心の奥底ではこの行為について自分へのメリットが何もないことを気づいており、しかしやらないわけにはいかないという状況がついてまわるため、非常に大きなストレスとなる。
(上記文章の表現は私の解釈で編集しているものであることを容赦されたい)

何故やらないわけにはいかないのだろうか。

そこに義務があるからだ。 

大人であれば義務を金銭で置き換えることは出来る。
しかし子供の場合はどうか。

メリットを得る代わりに支払うべき対価としての義務が、貢献であったり、期待に沿うことである、という状況は少なくない。 

自らに力も知恵も、もちろん自由に出来る金銭もなく、親という絶対権力者や大人という格上の存在から、「こういう時はこう振る舞うべき」「こういうことが出来る子になってほしい」と暗に明に示されてしまっては、それに抗う術を持つ子供はどれほど存在するものだろうか。

反抗的態度に出ることでドロップアウトは可能ながら、逆らった時の大いなるデメリットが自分にとって致命的だった場合には、もはや選択肢などないも同然であろう。

もちろん、人間は役割から離れて生きていくことは出来ないものだ。

特に成人し、社会に出て、自らの働きで金銭を得て生活をするようになるなら尚更のことだし、子供であっても、後々社会に出ることを考えて、躾という形で意に染まぬことを強要されるものではある。

しかし、それらは義務と役割からある程度開放される時間と場所を持ち、本来の自分に返って自由を満喫出来ることが出来るから許容出来ることであって、その場所や機会さえない状況で背負うにはあまりにも重すぎる。

大人であれば、家庭外での様々な役割を、友達付き合いや、家庭の中である程度ふるい落とすことも出来る。義務と役割による制限を受ける場所であっても、どれくらいまで自由に振舞っていることは許されるのかを判断も出来る。

子供はそこまで頭がよくない。経験も未熟だ。
そして役割が家庭の中で親から求められるものだったら…地獄に違いない。
家族しか知らないような世界の狭い子供だったら尚更、ヘイヴン(避難所)はきっとどこにもない。

取り除ききれない深い傷跡

私の場合、学力は割合高かったが要領が悪かったこともあり、どこで自由の息継ぎをすれば良いのか、誰にも教えてもらえないまま、それを質問するという発想をすら得ないまま、この年齢に至ってしまった。

褒められたら「当たり前だし」と思うと同時に、場合によっては胸の奥でモヤモヤとした怒りを感じていたのは、他人から強要された「私」を引き受けざるを得ない状況で渋々伸ばしてきた能力だったからだ。

更に、その役割を放棄した私でいることは、基本的に許されていなかった。もちろんガチガチに役割を実行していたワケではなかったが、少なくとも「ありのままの自分」を認めてくれる人が現れたと、信じることが出来たのは成人した後だったのだ。

そんなもの、褒められて嬉しいはずがなかった。
義務に押しつぶされないために、心底不本意だが役割をこなして生きるしかなかったのだから。

厄介なことに今でも、役割を背負う必要がないはずの場で、役割を自ら背負ってしまうことがある。

もはや自動的にスイッチが入るような状態で、自分で調節など出来はしない。

そして一度何らかの「役割」を引き受けたが最後、他人はその役割を込みで私という人間を判断する。

組織の管理能力に長けた人材。
周りの人間への気遣いが出来る人。
情報収集が早くて聞けばなんでも知ってる人。

私は、今になっても、この役割を脱ぎ捨てて等身大の自分へマージしつつ、他人の信頼も裏切らない、を全てこなすようなうまいやり方を知らない。

だから今もって、「私という役割を引き受けたまま関わりを永遠に続けるつもりで最終的には我慢の限界を迎えて関係を破綻させる」か、「最初から役割を引き受けない怠惰な人間として受け入れてもらう」かの究極の二択しか持っていない。

20年のつきあいが成立した一部の友人達は、私が役割を途中放棄する時も比較的寛容に接してくれる。もはやリアルでも活力不足のため、疲れやすくどうしようもない私の体と心をある程度把握してくれているからだ。

しかし彼ら以外の人間はさすがにそこまでのことをしてくれないし、私としても期待は出来ない。

実際、比較的寛容に接してくれていたことで信頼関係を構築できていたのに、最終的には私に何らかの役割を期待した一部の人間達と、それまで互いに伝え合っていたことが鼻で笑える勢いのいがみ合いを発生し、最終的には袂を分かつ結果となったことが少なくない。

 役割を引き受けた私を私と誤認している人と関わることは、私は永遠にこの人に利用されるのだな、という認識とイコールに近いような感覚もある。
子供の頃、役割を引き受けて生きていた時の私は、まさにそういう環境で生きていた(と思っている)から。

それらの経験を踏まえて、最近は「自分に役割を期待するタイプの人間であるかどうか」をある程度嗅ぎ分ける能力が育ったような気がしてさえいる。

それでも、役割と無縁の開放的な人間関係を構築するのは難しい。

私自身が相手に役割を期待していない、ということも言い切れない。
もちろん自覚が出来た時点で期待を手放す努力はしているけれど。

役割、期待、補償は全て地続き

追々整理がつけばこの辺をきちんと残すことにしたいと考えているが、とりあえず今回は私を一番傷つけているうちの一つをとりあげてみた。

「褒められても嬉しくない」という風に感じがちな人は、もしかしたら私と同じように、誰かに求められた役割をこなすことが当たり前になっている人かもしれない。

その人個人の喜怒哀楽や価値観よりも役割が優先される状態は、感情の抑圧しか招かない。社会を円滑に運営していくためにはある程度必要なものではあるが、そのためには役割に自覚的である方がより望ましいと私は思う。

無自覚に、24時間365日何かの役割を演じさせられている(少なくとも自分で強く望んでそうあるのではない)場合、その抑圧のせいで苦しいのかもしれない。

重すぎるけれどよくよく考えてやはり自分に必要な鎧であるのか、背負う必要のない呪いの残滓なのか。

見直す勇気が持てたなら、取り組んで損をしない問題の一つではあると思う。