ほんとはずっと寝ていたい。

書けることがあるときだけ書くかもしれない。

決別に至る道は、そんな些細な、と思っていることで埋め尽くされているんだ。きっと。

明確に文章にしたことはなかったけど、私は2010年代の比較的早い時期に、実家を出ると同時に彼らとほぼ縁切りをしている。

つまり2024年の現在に至っては、およそ10年近くもの間、実家の人間とは一切まともなコミュニケーションをとっていない、ということだ。

当たり前だが、盆暮れなどを含めて定期的に実家に顔を出すということも、縁切りをした時点での状況や互いの認識がため、一切していない。
するつもりもないし、考えたこともない。

しかし、2020年を迎える頃から、断続的に夢を見るようになった。

実家に戻ってあの人達と笑顔で会話したり、一緒に旅行などしたり、家でメシを食うなど生活を共にしたりする夢だ。
過去幼かった頃や若かった頃にはそうだったように。

ヒドイことに、これが起きたときに現実と夢の区別がつかない時もあって、精神的苦痛が半端なく、具体的には、起床の後精神的に落ち着くまで時間を要するような事態もザラにあった。

幸いなるかなリモートワーク。半ば使い物にならなくても、誰にも見咎められることがない環境の祝福よ。
いやもしかしたらコロナウィルス騒動前のように、毎日の通勤が当たり前以前の社会的常識で、バスに電車に揺られている間に多少冷静になれるというプロセスを経ていた方が、圧倒的に回復が早かった可能性もあるんだけど。

それはさておき、そんなこともあったのですが。

本日、改めて奴らと決別し、しかもこちらが笑顔で

「やっぱ我々あかんな!和解なんてするもんじゃねえってそっちも思ったやろ?やろ?せやな!ということで改めて着拒するし二度と来ないし、当然お前らのこと許す気もないから行くわ!あばよ!」

と啖呵きって、呆然とするあの二人と実家を後にしてe-bike(しかも確かに今利用している愛用のマイチャリ)で自分の部屋に帰ってくる(場所も中身も全然違うけど)。

という夢を見たんだ。

……まあ普通に考えれば、

「実家から自分の部屋まで、e-bikeと言えど片道さえ全うできるような距離感ではない(途中で電池切れますね間違いなく)」
「自分の部屋はあんな繁華街ど真ん中のビルの中じゃない」

などなどのツッコミが、起きてクリアになった頭からは次から次へと溢れ出てくるような夢ではあった。

でも、割と長いこと(そう、自分でもビックリするけど結構な期間なんだ)「これが自分の願望なのか」と悩み苦しむ夢を見ていた私からすると、「よくやった!!!私のポンコツ脳みそ!!!」と快哉を叫びたいような夢だったのだ。

現実で何があったのか

このblogで過去何度か触れているように、発達障害という診断をもらっている「私」とその家族(社会的に父・母・妹と呼ばれる間柄)の3人との間には、埋めがたい溝、超えがたい軋轢がある。

先方には先方の言い分があるだろう。
そして私には私の言い分がある。

2010年代、私は現在も勤務を続けている、とある国内の超大企業に属する特例子会社に就職が叶った。

これまでは将来設計が難しいと感じる非技術系の派遣社員や、それに疲れて糊口をしのぐために始めたアルバイト、一念発起して社員登用前提の契約・紹介予定派遣で働いた経験があるものの、その多くを「発達障害」の診断の根拠になる特性を理由として、成功させることが出来ずにいた。

それが、国内の、誰しもが名前を知る超有名企業に、障害者であることを前提にして、仕事ができる環境に入った。

就職当時の給料は、残念ながら派遣社員時代と比べても大分基準は低かったものの、それは織り込み済み。私が逆に雇用者側でも、与える業務・可能な業務の質や量見合いでこの程度ね、という判断をしただろう。
むしろ、10時間近くを住まいから離れて過ごせる上、仕事をしている社会人という社会的ステータスを手に入れた、という事実と影響が、私にも、家族にも、大きかった。

現在勤務している会社の仕事が天職・天国だという見解は、お世辞でも出せる気はしない。
……ここだけの話、就職した当初は潰しの効かないタスクしかなかったし、規模が拡大するに従って与えられる仕事が複雑化しその責任がヘビーになってきた頃には、障害者社員故に発生する諸々の事象にどう対応すべきかをうまくつかめていなかった人たちの中で、潰れそうになったことも、ある。

けれど時代も進みノウハウも蓄積してきた社内にあって、なんとかかんとか、今に至るも仕事にしがみつくことが出来ている。

閑話休題

派遣でもなく、期間限定でもなく、契約書に「基本的には継続契約」を前提に書面が作成された雇用契約を結び、晴れて自分の将来をポジティブに捉えることができるようになった私がまず考えたことが、「いつ実家を出ようか」だった。

当時、そう考えた表層的な理由は、まだ一人暮らしへの憧れに近い感情だったように今振り返っても思うけれど、もしかしたらもうなんとなく気づいていたのかもしれない。

ひとつ屋根の下に価値観の違う成人が二組以上暮らす営みは、その中でより立場の弱い誰かを抑圧せずに行えるものではないのだ、と。

我が家の場合、紛うことなく、抑圧を食らう「より立場の弱い誰か」は、私だった。

会社は大阪市内にあり、更に精神の主治医も市内にある都合上、多少生活環境に費用がかかっても、一旦大阪市内に生活の拠点を持つ利便性は相当高く、半年ほど不動産屋行脚を続けた結果、夏の盛りの頃に一軒の物件契約を決めることが出来た。

今もその部屋に住んでいる。広さの面で快適とは言い難いが、環境は申し分ない。
……可能であれば、もう少し文化的に暮らせる広さの環境に移りたいという気持ちは、この10年ずっと持ち続けてはいるけど。

そうして私は、「自分が生きていくために使える金」「誰にも何をも邪魔されない場所」の2つを手に入れた。
誰かの庇護や援助を一切受けることなしに。

いや、一部語弊はあるけど、まあ概してということで。

そうして家を出たおよそ半年後の冬に、その事件は起きた。

父だった人と袂を分かつ

実家を出た直後は、月イチペースで実家に顔を出す日々を自分に課していた。

市内の拠点に持ち込めず泣く泣く実家に残してきた各物品の整頓を進めるためだったり、母のITインフラをフォローするためだった。

父はもともと電気通信関連の卒業から関連の企業で営業をしているような人間で、退職前はPCもケイタイも会社貸与分を触ってはいたし、かろうじてインターネット含めたITもハード面であれば自力対応できたので、よほどのことがない限り放置出来た。

そして冬となって発生した致命的イベントが、年賀状作成依頼からのブチギレ金剛。

簡潔に言うと、実家に顔を出した私に、年賀状作成を「手伝ってもらう」つもりでいた父は、あっけなく私の反抗を正面から食らって泡を吹き、「二度とこの家の敷居をまたぐな」とご乱心召されたのだ。

私から言わせれば

「手伝ってもらう?モノは言いようって言葉どおりですね。結局9割私が作業するんじゃないですか。そのアドレス帳に宛先の皆さんの文字をコツコツ入力したのはあなたかもしれませんが、イラストはコレがいい、配置はこうしてほしい、印刷しておいてくれって投げっぱなしにするんでしょうがよ。私に対する信頼とか安心とか、それ単に自分のために私が小間使いが如く労働してくれるってことを勘違いしてるだけじゃないんですか」

という話で、手伝いとは言葉だけのことで、要は年賀状作るために働け、ということ。

毎年、ここまでほぼ毎年、その流れで労働を強いられてきた私からすれば、「たとえ寸志を頂けるとしても、それを含めた恨みつらみが正直あれこれとありまして、想定できる額程度では到底足りませんね」というのが本音で、つまり「お断り一択」しか答えはあり得なかった。

さすがに家に二度とくるなとまで喚かれるとは想定していなかったが、しかし拠点を既に別に持ち、生活の援助を受けてもいない自分には、そうなっても痛くも痒くもない。
むしろ先方の言葉に載って「えっ、置いてきた家財アイテム分の処理全部お任せしていいんですかヤッター!」とさえ言える案件。

結果的には。だ。

実際には、言われた当初は、体の芯からの冷えと絶望を覚えた。
その場は簡単に一言で済ませて場を去ったが、後々一人になってみればガクガクと手が、体が、震えていたことを強く覚えている。
そしてボロボロと一人で泣いたことも。

その時には言語化は出来なかったが、今してみると多分、こうなる。

「生活拠点を別にし、縁を切ることは簡単に出来る状態の、他人と同じ一人の成人になった子供が、自分の権利と意思から伝えたNoに対してそれを軽んじる態度、頭ごなしに振る舞うことを押し通すような人が自分の親だった」

「自分の甘えを子供の私本人の意思よりも尊重するのか」

「自分と、成人になったとしても子供である私との間に、対等性など存在しない、という考えですか」

「離れて暮らす私との間で存在するべき親子の信頼とは、この人にとってその程度のものだったらしい」

後ほど遅れて帰宅した母に、事の顛末を簡単に述べ、あの人の言葉どおり二度とここにはもう来ない、と伝えると、それを聞いて驚き慌てはしたものの、結局彼女はさほど動かなかった気がする。

まあ、わかる。だから期待もしていなかったし、彼女がそう動くこと自体に何も思うところはなかった。

長年あの人と一緒にいて、自分の言い分を恐らくは受け止めてもらえないという諦念が、母の中にもあったろう。
だからあの人と私の間で緊張状態が発生する度、親であるあの人ではなく子供である私の方が幾分御しやすいと見てとって、私に態度を折る様に言うような人だったのだし。

結局その日は予定通り一晩を過ごしたが、食事をあの人と一緒に取ったかどうかは覚えていない。
もしかしたらいつもの親父会で酒盛りしてたのかもしれない。

その後、あの人の連絡先は着信拒否他の設定で直接コミュニケーションを絶ったが、それ以前に私との間で直接やりとりをすること自体稀だったので、さほどの意味はない。
まあ、念の為。くらいの気持ちで入れた。

そして母とはSMSだかMMSだかのメールでやりとりを続けることは続けていたのだが、一点だけ。

「あの人に謝ることを今後一回でも口にしたら、その時はあなたとも関わりを断つ」

ということだけは明に言葉にして伝えておいた。

そのフラグが見事回収されたのが、それから半年としない頃。

遂に、私は親である二人共とそれぞれの理由で、縁を切ることになったワケだ。

母や妹だった人と袂を分かつ

何かの物品を渡す必要があって、実家最寄り駅まで私が出向き、そこで母と落ち合って喫茶店でお茶を飲んでいた。
そこまではよかった。別に最終段階に至るまでで既に何かトラブルがあったワケでは、まったくない。

母にとって、その言葉が口をついて出てきたのは、意を決してだったのか?それとも今まで私がほぼ言葉通り御されてきたように、言えばなんとかなると甘い期待を抱いてポロっとだったのか?

今も当時の私も、わからないし知りたいとも思わないけど、ともかく遂に、母はそれを口にした。

私は「そのことは既にあなたに伝えた通りですので、これをもってあなたとは関わりを絶ちます」と告げて、喫茶店を颯爽とあとにした。

震えはなかった。絶望もなかった。

彼女が今日の出来事で泣くのかどうか、今後私達がどうなるのか、そういうのも全部どうでもよくて。

「結局私は家族に恵まれなかったんだな」と、彼女の連絡先を全て拒否設定しながら、ただそれだけ思った。

話を聞いたらしい妹から後日LINEで連絡が来たが、家を出る前の状況の中で妹が私よりは若干あの二人寄りなのだなと判断する出来事があったので、その連絡を元にお前とも関わりを断つ、と告げて彼女との連絡先も全て拒否設定に入れた。

これが、実家のメンバー3人と縁を切った顛末。

人によっては「そんなことで!?」と爆笑し、「そんなことで……」と全く理解できない物体を目の前にするような顔をする、私達の話。

今に話を戻しましょう

そんな経緯なので、彼らと和解して実家にまた足を踏み入れる夢は、意識的には「願望を夢に見ている」という理解をできなくは無い。
残してきた色んなものを、スノボ関連、漫画、DVD、画材、ファングッズ……自分の手で処分したい気持ちは強いので。

けれど。

和解した結果の夢をあまりに何度も見て、精神的苦痛がとんでもないからこそ、私の本当の願いはアイツらと和解なんぞしないことだ、という強い意思を手に入れる必要があって、だからそれを夢に見た、ということなんだろうか。

ここんとこ、年齢が年齢なのでいわゆるホットフラッシュを体験することが多く、おかげで睡眠の質がすこぶる悪い。

ウェアラブルバイスとアクティビティトラッカーのおかげで、細切れ睡眠でもなんとか一日の目標数値は到達してるっぽいから一旦安心出来るなとか、流石にこの睡眠時間では体もキツイよなとか、そういう判断を出来てはいるけど、つまり睡眠が細切れで夢を見る回数が増えている。

それだけ夢を見る回数も中途覚醒する回数も増えると、そもそもが夢のコントロールは出来ない傾向にある私でも、稀に半覚醒状態を自覚することがあって、そこから夢の方向をコントロールする、という体験を片手程度はしてきている。

でも今日の、改めて最後通牒叩きつけてアバヨ!と柳沢慎吾みたいに言い捨てて出てくる、という夢までをもコントロールした感はしてなくて。
純度100%マイブレインプロデュースの劇場版だと思うのだけど。

今日会社に久しぶりに出勤して、多分ちょっと良かったことがあったのが、自分の脳にかかるストレスを実際に緩和してくれたから見れた夢なのかもしれない、とも、少し思わなくもない。

「禍福は糾える縄の如し」とはよく言ったもので、でも禍は少ない方がいいなあ(私の脳の作り的にはそっちに意識が向いてしまうのでしょうがないんだろうけど)と思いながら、今この記事を推敲している。